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第七回「第四部における“悪”について」



実は私……なんと高校の卒論、ジョジョで書いちゃいました!
ホントは「小説で」って課題だったんですが、先生に直訴してOKもらって書きました。
全部じゃ長すぎるので第四部にして、問題定義は後で考えました。
字数制限が厳しくって大変でしたが、結構いい感じに書けました。ので、もうちょっと読み易く、省略した部分を書き足し、またジョジョ読者なら説明が不要な箇所をはしょってリライトしてみました。
作品自体の考察なので、普段と毛色の違う文章になっています。
しかし、「卒論の題材にした」ってのはいい思い出になりそうです。




 荒木先生御本人がおっしゃっているように、ジョジョのテーマは「人間賛歌」です。
 漫画でそれを描こうと思ったら、多くの場合は「勧善懲悪」を使います。もちろんジョジョも多くのいわゆる「バトルもの」の例にもれず、最終的に“悪”の敵(第四部なら吉良吉影)がいて、“善”の味方がそれを討つわけです。
 そこで私はまず「“悪”とはなんなのか」と考えました。
 最初、私は悪を「“罪”と“罰”、少なくともどちらかが存在する行為や人間の事」であると定義しました。が、これでは吉良は“悪”には出来ない事に気付きました。
 まず、吉良は殺人によって“罪”悪感を感じた事はないでしょう。吉良は「爪が伸びるのをとめられないように殺人もとめられない」のですから。
 しかも、彼の殺人は「スタンド」という、普通の人間には見えない能力で行われてきたものです。川尻隼人は「裁いてほしかった」と言っていましたが、法的に吉良の“罪”が認められる事もないし、誰も彼に法的な“罰”を与えることはできません。
 では、吉良の犯した“罪”が見える主人公たちが直接“罰”を与えるのはどうかというと、これもできないんです。
 大体の漫画は普通にやっていますが、第四部の舞台は1999年の日本です。バリバリの法治国家で勝手に個人が個人を裁いたら、それが“罪”になってしまいます。仗助はやはり少しは“罪”の意識を感じてしまうでしょう。キラークイーンはかなり強いので、手加減して他の物と一体化させてしまうこともできないでしょうし。
 奇妙な話ですが、これで吉良には“罪”も“罰”もないことになります。




 ですが、それでも私は吉良を“悪”だと考えます。なぜか、という理由は一回置いといて、ここで比較対照として岸部露伴を出したいと思います。
 彼はいつの間にか味方サイドに加わっていますが、ヘブンズドアーで康一君の人生を剥ぎ取っていました。あのままなら康一君は死んでいたとおもわれます。しかも全ッ然反省してなさそうです。これじゃ吉良と同じじゃないか……と思ったんですが、たった一つ、決定的に違う事があります。
 それは、「誰のために行動していたか」です。  吉良は、「自分の殺人衝動」のために殺人を犯します。が、露伴は終始「誰かに読んでもらう」ために漫画を描くために(ややこしいナ)行動しています。
 「自分のため」か「他人のため」か、これは大きな違いです。まぁ、「写真の親父」は吉良吉影のために行動していましたが、これはあくまで息子ですので「他人」とは言い難いでしょう。  それに比べて味方サイドは、そもそも味方なのかすら怪しい間田と玉美、それに目的がハッキリしない億安と康一君を除いて、みんな他人のために戦います。わかり易いのは仗助と重ちーで、「自分達の町を守る」と言っています。顔も知らない人まで含めて「町」という大きな物を守るために戦っているのです。トニオさんだって「料理を食べてもらう」事が目的ですしね。
 これは非常に重要な事だと思います。
 現実の例えが難しいのですが、新撰組を思い浮かべてください。確かに彼らは大勢の人間を(身内も含めて)殺しましたし、やったことも時代の流れには合っていませんでした。
 しかし、彼らは自らの信じる“誠”を追い求め、日本という国を守るために戦いました。私利私欲のために戦った組織だ――とは誰も思っていないでしょう。
 ジョジョ以外の勧善懲悪モノの漫画や物語でも、卑劣な悪役というのは皆、自分のために行動しています。それに引きかえ、味方で自分のために行動している事はないでしょう。ムスカは自分のために飛空石を手に入れたかったし、バズーはシータを守るためにラピュタへ向かったのです。分からなかったらごめんなさい。
 もっと簡単にしてみましょう。電車に乗ったときに、明らかにお年を召したお婆さんが目の前にいるのに席を譲らない若者がいたとします。どう見ても若者は健康そのものに見える……というか健康そのものだということにしておいてください。
 この若者を、十中八九の人は「マナーが“悪”い」と評するでしょう。法には触れていませんし、若者自身も罪の意識なんざ欠片も感じていないにも関わらず。
 つまり、人間はそれに“罪”や“罰”が有る無しに関係なく、“自分のために他人に迷惑をかける行為”に対して、“悪”であるという感情を抱くのです。
 違法な行為なら、裁判所に訴える事もできますが、これは出来ないでしょう。起訴できない理由は違いますが、それがわかりやすいか、普通に人間には見えないかを別にすれば、これは吉良の殺人に似ているのではないでしょうか。
 実際、この若者に注意するには勇気が必要です。現実にも、マナーの悪さを注意した事で殺されてしまうという事件が起きています。大部分の人間(私も含めて)が、そういう“ヒト”の“悪”い部分を見過ごし、見てみぬフリをしているはずです。
そういう誰にも裁けない、そして危険な“悪”に対して、“正義”の鉄槌を下す。それが第四部での「勧善懲悪」なのではないかと、私は思います。そういう事をする「勇気」。そして、自分に直接は害がなく、見知らぬ人間のためでさえ命をとして戦う「黄金の精神」。これこそが第四部の命題であると、私は思います。




 いかがでしたでしょうか。卒業“論文”というだけあって、普段とはちょっと毛色のちがう文章になっていると思います。……まぁ読解なのでほとんど私の意見なのですが。
 いつものように意見を……つっても、全部が全部私の読解(空想・妄想とも言う)なので難しいとは思いますが……。まぁ、「論理的に矛盾がある」とか「納得できん」というだけでも、些細なことでもいいので、なにかありましたら掲示板メールでよろしくお願いします。




<蛇足>
第四部の最後が「交通事故死」になった理由。一部ファンからも「爽快感がない」という不評の声が上がりますが、これは本文の最初の方に書いた部分に書いてあるような事が理由なんじゃないかなぁ、と思っております。それに、いちおう普通の高校生やってる仗助が殺人なんかしちゃマズイでしょう。あと、スタンドが見えないといっても、目の前でいきなり吉良がフッ飛んで絶命したら、救急隊員なんかはいくらなんでも怪しむでしょうし。
</蛇足>



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